昭和四十八年五月二十日 朝の御理解
第七節 【天地金乃神は昔からある神ぞ。途中から出来た神でなし。天地は流行ること
なし。流行ることなければ終りもなし。天地日月の心になること肝要なり。
信心はせんでも御陰はやってある。】
天地金乃神様のん..いわば.あ..どういう.天地金乃神様という神様はどういう神様かということを説明しておられるね、昔からいわゆる..ん..途中から出来た神ではないという風に、又は..あ..それゆえに流行ることもなからなければ、又終わることもだからない、ちゅ極まる事が無い、天地無休と言う事ですね。
え..同じにその神様は信心はせんでも、いうならば御陰をくださってあるという、いうならば無条件で、御陰をくださってある神様だという。
その神様の御陰をいよいよ、頂かせて頂く為にね、天地日月の心になること肝要だと、教えられた、ですからここの所が出来なければ成らん、天地日月になること肝要である。
だから肝要な所をです、一番大事なところを抜きにして、いかにほなら詳しく.信心が詳しくなっても..ね、いかにお参りさせて頂いても、いかに御用が出来ましても、それではいわゆる本当のことではないという事になるのです、もうこら何でも同じこと、何の稽古でもね、ここが肝心要という所が有る..ね、その肝心要のところを抜きにしてよかろうはずがありません..ね。
扇子なら扇子、あの要のところ、ここを抜きにしたらどうなりますか、まあ.扇子の形をしておっても、大して役には立たないでしょうね、例えばお茶なんかをする人が、ほならお茶の精神というものがあるものを、そのお茶の精神を抜きにしてどんなにまあ.いうならば、あ..手捌きというですか、そのお茶の道が綺麗に美しゅう出来たところでです。
それは形が出けておるだけであって、お茶の精神を味合うことは出来ない..ね。
【和敬静寂】新に申しますね、 【お茶の精神】ね、そういう例えば根本精神があるのに、え..和の心もなからなければ、人を敬う心も無い、何時も心が寂というですかね。
いわゆるワビとか、サビの味わいを、味わいきれずしてどんなに、ほなら手前綺麗にお茶を立てましたところでです、お茶とはこんなもんだ、と知っておりましても、そりゃもう値打ちはないでしょう。
信心においても同じこと、ほんに信心が詳しくなったからというて、いかに熱心にお参りしてるからというて、一番肝要だと言われる、肝心だと言われるそこの要のところを抜きにしては、本当の有り難さに触れることは出来ません、勿論お徳を受けて行く事、なおさら出来ません、こりゃどうでもね、肝心要のところですから、ひとつ本気で天地日月の心になることという所をです、極めて行かなきゃ、まあこの天地日月の心ということは、まあ私はあらゆる角度から、皆さんに聞いて頂いておる訳です..ね。
【天はあれは、与えて与えてやまないもの、】いうならば限りなく美しゅうなろうとここでいわれる昔はそれを合言葉のように言うておったのは、いわゆる天の心を体得しょうと限りなく美しくなろう、問題は解決する、本気で美しゅうなる為には、磨きもしなければならない、改まりもしなければならならん、いうならば垢も落とさなければならない、磨きもかければ美しゅうはならんです。
だから美しゅうなろう、本気で美しゅうなろうと思うたら、どうしても教えを行じなければおられない..ね、本心の玉を磨かなきゃ成らん、本心を改めていかなきゃならん、でなからなければ美しゅうなれない..ね、これは天の心、天の心を心として..ね、いわゆる神様の心を心として、ということを申しましょう、それは天地日月の心ということになることが肝要だという生き方になって、始めて神様の本当の心がわかるものだ..ね、神の心を心としてということになる..ね。
【大地の心..ね、黙って受けて受けて受けぬいて行く、】いうならばどういう問題でも、だまって治めれるという生き方.信心.この生き方を持って治まったもんならば間違いがない、狂いがない..ね、又は黙って、大地のいうなら性体というかね、と同じように受けて受けて受けぬいていくという生き方..ね。
あるお茶の宗匠が、昔のそれこそお茶の精神を生活の上に表して、お茶の道を極めた人の話なんですけれども..ね、たくはつに出られる、お坊さんです、たくはつから帰って見ると、お客さんがあっておる、そいで自分の持っておるたくはつして回られたどんぶりをのようなものを持っておられるね。
それでまず、自分の手を洗うたり、顔を洗うたり、口をゆすいだりして、綺麗に、そして.え.その.あれは鉢ですね、鉢を又綺麗に洗って、それでお茶を立てて、お客様に現に差し出したという、もう無茶と言ゃあ無茶こんな無茶苦茶なことはない、手を洗うたり、顔を洗うたりした、それがそこに洗面器があるわけでもなかりゃ別に.他に器らしい器もない、只そういう中にお茶の修行をしておる。
ですからたくはつに回っておる色んなものを受ける時もそれで受ける、帰っててを洗う時もそれで手を洗う訳、それをこう綺麗に洗って、それでお茶を立てて出した。その例えばその寂の心というかね、もうその静かなその.まあ振舞いというか、和の心というか、又は敬うといったような、心が一つも掛けていなかったというのです。
お客さんがそれを感じたと、「お茶とはこれだ」と思うた、必ず立派な茶碗でこうとああということではない、その精神がまあ.お茶の精神だ、全然汚らしさも.汚いものも相手に感じさせない程しの見事さであったという、話を聞いたことが有ります、まあいうなら無茶苦茶です..ね。
私あの茶道をもう十何年前でしたでしょうか、頂きました時に真っ白の(?)でしから
それにそれを変えた、普通は.ん..無茶苦茶と言うのですけれども、いわゆる私は『苦茶無茶』と書いておる、苦しい茶、無茶と書いておる、まあ茶室に有ります、あそこに入った人は「まあどういう意味ですか」と皆が尋ねられる時に、私はいつもそれを話すんです..ね。
いよいよそのお茶の道の本当の修行が.苦しいとこ通った、苦茶である..ね、そこを通った所に今のお坊さんでないけど、普通からいうたら、無茶苦茶なこと、そいこそへどが出る思いがするでしょうよね、手洗うたり、顔洗うたりしたでお茶出されたら、ところが感じさせないということ..ね、苦茶無茶であるね、その苦しいそこのところを通っておるならば、無茶なことしても言うてもです、それが無茶苦茶に聞こえないと言うのです。
いつも、石井きよしさんの例をとりますけれども、例えば天地日月の心になること肝要だというなのに、いうならば.まあ一番近い生き方を、信心生活の上に表しておる人だと思うですよね。腹を立てんというのですから、どんな難儀な問題が起こってきても、これは天が私に磨こかけてくれたと思う、それで磨くちゅ。
結果においては..ね、子供達の上にも、家族中の上においても、仕事の上においても、それこそ一人でに物が出来るように、恵まれた生活させて頂いておる、まあ事実そうですわね、ですから、この人時々無茶なこというです。
先日も、日田からの帰りに、あれ.あの車に便乗させて頂いた人に、帰りがけに皆合楽に寄ってお礼をして行きますよね、ところがきよしさんは、「僕は大体.迷うとたっちゃお礼は出らん」もう何かいかにも無信心者のような、感じです、だから、ところが清さんが言うた分にはひとつもどうしたこというじゃろうかとは感じない訳です..ね
いわゆる苦茶の所を、日々生活の上に現しているからなんです..ね、だから、一人でに物が出来るような御陰、という御陰なら本当にそら信心はなかってもいいのです。
天地日月の例えば心を、生活の上に頂いていった..ね、本当に馬鹿になりきったら..ね。イワンのばか.なんかがそうでしょう、金光様の信心しとったというわけではないですね。
それでも.ね.恵まれに恵まれる、というそういう一つの真理を私は.あ..解いた本だと思いますよね。
だから信心させて頂く者はです、そういう天地のいうなら事分けを、分からせてもろうて、それを私共が、一番感じ.信心者としての肝要なところと頂いて.ね、一人でに物が出来るような、御陰を頂いていわゆる天の心です、限りなく美しゅうなることはです、その頂いている御陰を以って、神様の願いに答えさせてもらおうというような、生き方になるということがです、神恩に対し奉って報謝の生き方をさせて頂くという事が、お徳を受けるんだと最近は言われとりますわけです..ね。
例えば..ね、ほなら私が、なら湯上りひとつで夜中に出て来てから、ほなここで御祈念をする、もういやなら湯上りひとつでほならお供え物を頂いたりする、ああとてもろくそなことである、むちゃな先生やというかもしれない、けれども私にはそこんところの苦茶のところが出けてるから、それを人にそう感じさせないのじゃないでしょうか。というてほならそれを修行生の人がしたらやかましいことでしょう..ね。
親鸞上人様が、いうならば.あ..生臭気をおとりになった..ね、お魚も食べられた、奥様ももたれた、そういう生き方の中にです..ね、お弟子さん達が.ある弟子があ..それを真似したと、その.まま破門になったという話しがあります、精神が違う、肝心要の所の精神をちゃんと把握してからの事である、その把握が出来ない把握をしたい為に、家内も持たない、妻帯もしない、生臭気も取らないという精進をするのです。
そういういうなら厳しい修行もさせてもろうて、生臭気をとるのであり、妻帯するのである、そのわけも分からずに.ね.いきなりそんな事をするから、やっぱ破門になるというわけです..ね、通るところを通るということ、それを私は天地日月の心なるというそのことをです、本気でそれを自分のものにさせて貰わなければいけない..ね、そこから一人で物が出来るような御陰を受ける、その受けた御陰でです.その受けた.その御陰を以って私共が天地に報謝していく..ね。
喜びと慎みを添えて、それに神恩報謝の真を現していく、天地の親神様のお心がわかればわかるほど、いうなら和賀心時代を創らせて頂く、自分の心の中に頂いて、それを広めて行く、社会に広めて行くという運動が、和賀心時代を創るというような意味のことです。
だからその方針、そのいうならば運動員にも、お互いならせて頂こうというような心掛け
に成らせて頂く時に、天地の信用をいやが上にも受けて行くことが出来るだろう。
私今日は、ここの御理解七節から、天地日月の心というのはです、なあ..どういう心かということは、もう常に私はそれこそここの所だけはもう、あらゆる角度から、皆さんに聞いて頂とる、だからそういう心に成る事が肝要、ここをまず肝心要の所として、お互い信心の稽古させてもらわなければいけない..ねこれを抜きにして、どんなに信心が高しょうになっても、お参りが出来ても、それは要のとれた帯のようなものだと、今日は聞いて頂きましたですね。....どうぞ
平成十七年七月十七日 渕上順子